【北山修先生の講演会から】
【三つの区分】
北山先生は、発達段階を大きく三つに分けて、対処方法の違いを区別しています。この三つの発達段階は、精神病、BPD(境界性パーソナリティ障害)、神経症です。BPDという区分を認めないのは少数派です。しかし、是非に着目したいと思っている最近の傾向があります。かつて1990年代や2000年代には、BPD(境界性パーソナリティ障害)という診断名が盛んに用いられたのでした。何かといえばすぐに「境界性パーソナリティ障害」あるいはそれに近いものという言葉が出てきて、症例検討会でもそのように見立てることが多かったです。どうしたことか、近年はこの言葉があまり用いられなくなってきました。時代の変遷によってかつてのような激しい行動化が実際減ってきたというのもあるでしょう。それに加えて、とくに近年精神医学のなかで、ADHD、自閉症スペクトラム障害、双極性障害2型という疾患に着目することが増えてきたので、境界性パーソナリティ障害からそちらに診断名が移行したことも考えられます。BPD(境界性パーソナリティ障害)とは診断名・病名であるとともに、パーソナリティの構成のあり方に着目しているものですので診断名ではないこともあるのが混同しやすいところです。
さて、北山先生の上の三つの発達段階に対応した診断名、つまり精神病、BPD(境界性パーソナリティ障害)、神経症に戻りますと、この区分方法は、おそらく古典的な区分に近いものではないかと思われます。つまり、このBPDは、精神病と神経症の間であるという考え方が基礎にあります。DSMのBPD(境界性パーソナリティ障害)ではこのような考え方の基礎は希薄化しています。北山先生のこの分類は、DSMのものとも重なっているとともに、20世紀半ばの「境界例borderline case」あるいはそれ以前の区分といってもいいかもしれません。いずれにしても現代でもこういった3つに区分をすることがありますが、北山先生はこういった三つの区分を精神分析の発達理論とも対応させます。つまり精神病は口唇期に問題が固着している、BPDは肛門期に、そして神経症はエディプス期というふうに対応させます。これは図式的ともいえる区分法です。さらに、3区分に対処法を組み合わせます。つまり、北山先生はBPDあたりに「分水嶺がある」として、BPDでも場合によって対処法が分かれおり、精神病およびBPDでも精神病の側に寄っている場合には「おおいを作る」対処方法をとり、神経症側に寄っている場合には「おおいを取る」対処法を取ります。ですから実質的にはBPDは二種類あるという分類になります。つまり精神病に近いものなのか、神経症に近いものなのかということです。こうして4つに分類されていて、対応法から考えれば実質的にはたった2つに分類されています。
余談にもなりますが、摂食障害は境界性パーソナリティ障害とは異なるのが、公式の分類ですが、心理的発達の段階で見れば、口唇期に問題があると思われ、この水準を扱うにあたっては、通常の心理療法も精神分析療法も非常に難しいことが多いです。「おおいを作る」のにも「おおいを取る」のにも難しいというか、何ともしようがないようにも思われます。また摂食障害は強迫的傾向が非常に強いために、それは精神分析的には肛門期の問題としても考えることができます。強迫性という肛門期のテーマも扱いは、口唇性ほどではないにしても、これも困難です。このように摂食障害は口唇期と肛門期の両方が組み合わせっていて、通常の神経症とはだいぶん異なっています。なお「肛門期」という言葉はどんな病理性であるのか今ひとつ説得力をもたないようにも思えますが、「口唇期」はかなりリアルな説得力を持ち得ます。
さて「おおいを作る」とはどのようなことをするのでしょうか。これは色々あります。おもうに、たとえば次のようにも説明できます。つまり、十分に納得がいかなくても、理解の落としどころを作るのです。それによって穴を塞ぐのです。これは言葉や考え方などを与えたり一緒に考えたりします。でもこれは真に考えることではありません。考えようとしても考えられない、考えようとすると悪化するリスクの方が大きくなるので、おおいを作っておくのです。しかし、あまりにおおいを作りすぎると、こころのなかに二重構造を作ることを強化しすぎる可能性もあります。これはいわゆる抑圧のメカニズムの代わりになるような構造を作って、より保護的なものにすることです。しかし、これにはリバウンドがあり得ます。それにそんなにうまくいくものではありません。何か訳のわからないものを、開かずの部屋に閉じ込めてしまって、封印をしても、かえって、内部のものが自己主張して思わぬところで漏れ出てくる、抜け道を通ってでてきてしまうなどと、始末が悪くなりかねません。代替物をあまり強くしすぎるとそれ自体が病理的なものを引き起こすということもありえます。
時にはおおいをうまく開けることもできるくらいのゆとりが必要です。訳のわからないものはさしあたりドアのないお部屋に入ってもらって、ドアを作って閉めて、時々ドアを開けてゆとりを持って話したり、調子がどうかを尋ねたりができるくらいに折り合えるのがよいかと思われるのです。そしてあまり窮屈ではないように、時には散歩に連れ出したりしてもよいわけです。そして、それとある程度の交流を通じて、何か心の幅が拡がるような、思わぬ発見ができることさえあるかもしれません。そして普段は忘れておいてもよいのです。
これくらいになれば、だいぶん落ちついて来たともいえるでしょう。これは神経症モデルに近いものを作るということです。そしておおいは頑丈すぎず(所詮頑丈なおおいを作ることができませんが)、ある程度は開け閉めができるということです。でもこんな楽観的な話しではおさまらないような気もします。
なお精神病の場合には、このようなお部屋作りやドア作りはさらに困難です。意図的に作るのではなく、自然にそうなっていくように緩やかに心理的なサポートをするというふうでしょうか。
また内服薬も効果が期待できます。たとえばドーパミンを調整するようなタイプの薬は穴を塞ぐ作用があります。精神病では、自我と外界のあいだにある壁やドアや窓に幾つも穴が開いてしまっていると考えられるので、穴が開いたところを内服薬でパッチを当てるようにして塞ぐ効果があるというイメージでもあります。
北山先生の著作には『覆いをとること・つくること - <わたし>の治療報告と「その後」』があります。
【「劇的」の観点から】
北山先生は、精神分析を「劇的」という観点から考えます。『劇的な精神分析入門』や『悲劇の発生論-精神分析の理解のために』などがこういったテーマが関連していそうな北山先生の著作です。
精神分析を「劇」という観点からとらえるというものです。
日常生活のなかでは、トラブルやあるいは好ましいことなど様々な出来事が生じますが、精神科臨床や精神分析実践のなかでも日常生活の中で発生することと同じことがテーマになったり、垣間見られたり、あるいはその現場でつまり診察室やカウンセリングルームの中でも発生することもあります。これらの幾つかの出来事をつなぎ合わせて全体としてみると、その人の特徴が現れているように思われることがあります。外で現れる出来事は、この部屋なかで担当医・カウンセラーとクライエントとの関係においても生じても不思議ではないということは、精神分析的なカウンセリングの世界では常識のようにして教えられるものです。人物、環境、設定などがいろいろにかわっても、このクライエントには何かいつものパターンがありそうだというわけです。そのパターンはこの臨床場面でも繰り返される可能性があるわけです。このような繰り返しを、精神分析理論では「反復」という専門用語で呼ばれています。つまり、幼児期や少年少女期に形成された何らかのあらすじのようなものが、成長して以降も、おきまりのパターンとして手を変え品をかえ、そして対象となる人を変えながら繰り返されているらしいということです。そしてとくに担当医、分析家、カウンセラーを相手(対象)にして発生する「反復」を特別に「転移」と呼んでいます。
元々の原型的なものがあって、それが反復されるとされます。このあらすじのようなものがシナリオをつくって、そして患者は様々な役者を配して現実世界を反復構成するのです。ですから、いつも同じようなことが生じる傾向が生じるのです。そしてその主人公はクライエント自身です。こういったことの全体が北山先生の言う「劇的」と呼ばれるもののようです。
もともとの原型となるようなオリジナルのあらすじは一般に父親や母親などとの関係や生まれ育った環境、そして本人の性格特性など複合的に形成されるのでしょう。
ともかく、まずは自分の考え方、行動、言動、巡り合わせ、対人関係のありかたなどに、何かいつものパターンが繰り返されてはいないか、気がつくことが有意義です。そこからさらに進展があり得ます。知っておくだけでも、その都度の対処の仕方考え方に変化が現れます。振り回されずにより客観的に対処しやすいでしょう。さらに、こういったいつもの自分の傾向について多面的に考えてみることも有意義だと思われます。
さて、そもそも精神分析にはその発祥からして、演劇的なところがありました。ヒステリー患者は演技性があるというのはほとんど常識的なこととして繰り返し語られてきました。ヒステリーでみられる諸症状も演技性と関連しています。誰に見せるわけでもなさそうにも見えても、密かに誰かに見せているような、それでいて自分でもそのことに全然気がつかないような演技性です。ですから医学的に理解出来ないような不思議な現象、症状がたくさん生じてくるのでした。ちなみに詐病ではなく演技性です。時代によっても様々に症状がかわります。
最初にヒステリーに注目して研究したひとりがシャルコーというフランスの精神科医でした。彼は医学部の学生たちの前でヒステリー患者を連れてきてプレゼンテーションをしていました。いまでもあると思いますが、当時の講義用教室は階段状だったり、すり鉢状でもあったりで、実際フランス語ではamphitheatreアンフィテアトルと呼ばれています。「Theatreテアトル」とは劇場です。実際Amphitheatreは劇場ではなく教育の場所ではありますが、シャルコーはヒステリー患者を呼び出して、ヒステリー症状を学生たちの前で見せたりしていたのでしたら、このときはまさに劇場のように機能していたのでした。またヒステリーの治療を本格的に行い、精神分析を創始したのはフロイトでしたが、フロイトも分析のなかでは、患者に演じさせていたともいえるかもしれません。フロイトは演出家であり、それをヒステリー患者はフロイトの意図に叶うように自分をかなり柔軟に変形させることもできる女優なり男優でありえますし、夢もフロイトの意見にあわせた内容でみることもできたでしょう。そういったことについてフロイトも患者も半ば気づきながら、半ば気がつかないふうであったようですが、フロイト以降の精神分析家たちは、こういった状況把握にはますます注目するようになりました。北山先生の「劇的」というのもその一つの表れです。もちろんフロイトもこのことについては気がついてはいて、技法的には、患者に自由連想を命じて、患者は寝椅子に横たわり、患者が見えないところにフロイトが座って、フロイト自身はあまりしゃべらないという設定をしたのは、ヒステリーの感が鋭く状況即応的で演技的なところを取り扱い可能なようにするのに適していたからだと思われます。そして生じてきた「転移」を過去の「反復」と見なして分析をすることを「転移分析」と称すようになりました。あるいは、英国学派では過去を見るより「今、ここ」にみられる反復を主たる着目点にもしているようです。